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  信仰の歩み                  U.P

  私は韓国人として韓国で生まれ、来日したのはこれから約13年前です。韓国の事情は皆様もよくご存知のようで言うまでもないと思う訳なのですが、あえてご紹介しますと、韓国の教会は1970年代急激なリバイバル(成長)に至り、およそ教会員数3,192,621人に達し(これは、1960年代623,072人に比較すると412.4%成長率を表す:韓国宗教社会研究所『韓国宗教年鑑』による)24年後の1994年には8,146,556人と言う大きな成長に至り、2005年には約1千2百万人に上る、即ち、四人の内一人が教会の信徒であることから伝わるように正しくキリスト教国と言っても過言ではない現状のなか私はいつも、救われた証を頼まれたり、言われたりすると大変恐縮なのですが、証がないのが証なのである。と言うのは生まれながら信仰を受けついた私においては救われたと言うことはとっても、自然的で当たり前のことだったからである。

  しかし、私において主に救われたものとしての証をひとことで表現すると自慢話しのように感じるかも知らないが『喜び・交わり』なのである。なにげなく、教会に行くのが楽しくてたまらないのは『喜び・交わり』の上にあった信仰生活であり、ライフであった。わかりやすく言うと教会に行くのは内庭のようなもので、親しみと聖書で出てくるタビデ王の告白のように私の避けところ・私の盾であった。と言う訳で教会の中で悩んだり、教会の奉仕で苦労を覚えつまずいたりする人々のこころは以外に理解できないのがドンカンなものだったのである。幼い時から、病や病気にかかったりすると、父と母はいつも、第1にして来たのが牧師や長老を招いて礼拝を捧げたり、お祈りを通していやしを求めて来たのである(後に知ったヤコブ書5:13〜18)。しかし、不思議ではなく当たり前のことであるが、癒されたのである。世の人々から言わせるとご利益信仰とも言われるかも知れませんが、私の信仰においては今もなお、そのみ業が体験しつつあるのである。

  今は二人息子(9才・5才)の父である私において、二人の息子は自分の状況や体の調子が悪くなると自ら祈ってほしいと言われるのである。もちろん、真実な神様は祈りに答えて下さり『バンザイ』である。時には信仰をもって祈っても状況は変わらず、そのままであるのだが二人の息子の姿は、天の父なる神様がきっと、喜んで下さると思うのである、そして、父である私が体調を崩した時などにおいて、小さい両手を合わせ下手なことばで神様に祈ってくれる姿はこの世にない大切な宝であり『喜び』なのである。更に、『交わり』は私の信仰生活を成長させてくださったとっても、大切なライフであった。すばらしい信仰の先輩たちとの『交わり』は単なる教会生活に止まらず私の悩みや問題においても積極的に解決できるように祈ってくれたり、解決に至るあらゆる努力をも惜しまず施してくれたのである。

  儒教の影響で先輩・後輩の倫理が厳しかった背景の当時であったにもかかわらず、先輩とか隔てがある関係ではなく正しく、神の愛によって結ばれた絆即ち、神を信じなければ味わうことができない本当の兄弟・姉妹の温もりを感じさせる慰めと励ましがある愛の共同体だったのである。いまもなお信仰者として歩みを繰り替えて告白すると『キリストには変えられません、よのたからもまた富もこのおかたがわたしにかわってしんだゆえです、キリストには変えられません、有名な人になることもひとの誉めることばもこのこころをひきません、キリストにはかえらえませんうつくしいものもこのおかたでこころの満たされてあるいまは、よのたのしみよされよのほまれよ行けキリストにはかえられませんよのなにものも』・・・私は今日も信仰・希望・愛を共にする、信仰の交わりの友を捜し求めているのである。

以上





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